【ニュース解説】世界の右傾化を支える「ポリコレ棒」とは何か★2


◆世界の右傾化を支える「ポリコレ棒」とは何か

トランプが大統領選に勝って以来、ネットでは「ポリコレ棒」という単語をよく見るようになった。
トランプ勝利の要因のひとつとして「アメリカ人のポリティカルコネクトレス(以下、PC)疲れ」ということが言われ、それに対応する形で、ごく一部の反PC勢が使っていた言葉が、広く伝わるようになったようだ。

まず、簡単に「PCとはなにか」ということを説明すると、表現の上で差別や偏見が含まれないようにするという話で、日本人で一番わかりやすいたとえは、かつて「看護婦」と言われていた職業が「看護師」になったことであろう。
女性を表す「婦」という言葉を、性別の意味を含まない「師」という言葉に変えることにより「看護は女性の職業・役割」という偏見を排除したのである。

ではそれによる「疲れ」とはなにか。
それはPCが表現上の配慮という側面を大きく踏み越え、「正しいこと・正義」という風合いを帯びることにより、あらゆる表現に対して「PC警察」とでも言うべき人たちが現れ始めたことにある。
特に、誰もが発言できるSNSなどで、PCに反する人間を叩くことで、新たなフォロワーや読者を呼び込むような人も出てきている。
彼らの暴走が、多くの人たちを呆れさせている。

アメリカで保守系の人間が盛んに喧伝しているのが「PCのせいで、メリークリスマスが言えなくなった」ということである。
日本ではすっかりケーキ食べて、ターキーではなくフライドチキンを食べて、男女がセックスする行事になって久しく、宗教観が薄いのでわかりにくいが、クリスマスはれっきとしたキリスト教の行事である。
それを宗教の違う他者に対して主張するのは問題だとして「ハッピーホリデー」と言い換えなければならなくなったと、反PCである保守系の人たちは主張している。
それが本当か大げさな喧伝なのかは分からないが、もし本当だとして、たまたま挨拶として口にした「メリークリスマス!」が、他人から「メリークリスマスとは何事だ!おまえは配慮のない人間だ!!」などとPCを理由に批判されれば、もはやPCに正当性など感じられないのは当然であろう。

こうしたことから、PCに懸念を示す人たちの中で、外国にもそういう表現があるのかは分からないが、日本では「ポリコレ棒」という言葉が出てきていた。
かつての政治運動の時代に、ヘルメットにサングラスをして集まった左翼が使っていた「ゲバ棒」の存在と同じように、「自由だ平等だ平和だ」と言いながら、自分たちの正義を他人に押しつけ、意に沿わぬ相手を殴りつけるための「武器」として、PCを利用しているという意味の単語である。

PC警察が警察であれば、法に従うからいいが、PC棒での殴打は、もはやゾンビの群れに襲われるに等しい。
それは「PC疲れ」などという弱い表現では物足りず、もはや「PCによる恐怖」と言うべきであろう。

私自身は、それでも、もしアメリカに住んでいてもトランプに投票しなかったであろうが、もし私と同じ体験をした善良な人たちがいれば、その大多数はトランプに票を投じたであろう。
それくらいにポリコレ棒による殴打は、リベラル性に理解を持つ善良な人々を辟易とさせ、自由や平等という建前に対する疑念を産み、保守や右翼という側に多くの人を追い込む結果となっている。

私自身はPCは重要な概念であると考えている。
そこには表現において多様性を守っていくという役割がある。

しかしPC棒を振りかざす人たちに共通するのは「自分たちの意に沿わない意見は認めない」という狭量さである。
多様性を認めるべきPCが、その使い手の傍若無人さによって、多様性を認めない概念であるような誤解を生んでしまっているのだ。

原因はPCの使い手側の傲慢さである。
PCという概念を正義か何かと勘違いし、知識を得ることも自分で考えることもせずに、自分がその審問官だと思い込んでいるのだ。

BLOGOS(ブロゴス)/赤木智弘 2016年11月19日 15:30
http://blogos.com/article/198700/

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http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1479598066/

※>>1の続きです。